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2015.01.31

コラム|「想い」のゆくえ(佐賀)

佐賀東高校演劇部顧問の彌冨公成(いやどみこうせい)と申します。県高文連演劇専門部では委員長をさせて頂いております。

佐賀東高校演劇部の2014年は、なかなかの多忙でした。青年会議所、佐賀大学医学部、市のPTA協議会、佐賀いのちの電話など、様々な団体からテーマを与えられての依頼公演を行いました。県外では、大阪のすばるホール、道頓堀ZAZAhause、かごしま県民交流センターなどでも公演させて頂き、トータルで新作10作品、のべ22会場での公演となりました。2014年度佐賀県教育長表彰、そして九州高校演劇研究大会でもありがたい賞を頂き、今夏の全国大会(びわこ総文祭)に九州代表として進出することができました。

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私は「いやどみ☆こ~せい」の名で台本の執筆にあたり、昨年書いた原稿用紙を数えると1000枚以上になりました。顧問経験14年目にして過去最高記録かも知れません。そんな私の本業は、国語教師です。ちょっとカタい話になります。高校国語においては近年、「表現力」なるものの伸長が求められており、それが「生きる力」育成のカギを握るとされています。小中学校でも「上手に表現すること」が求められ、広用紙(今は電子黒板)を指さしながら、「大きな声で」「わかりやすく」「論理的に」説明する力、討論で「相手を説得させる」力を身に付けるための授業が展開されています。「自分の考えを積極的に述べよう!」「相手を説得できるようになろう!」なんてことを目標にするわけです。積極性があり理論武装をした大人たちがあちらこちらに棲む未来は……ちょっと怖いですよね。それに、日本が大切にしてきた『謙譲の美徳』(佐賀由来の『葉隠れの精神』なんてものもありますが……)、そんな感覚も薄れていきそうな気がしなくもありません。ですが実際は、皮肉なことですが、そういった心配は要らないようです。なぜなら、「想いを自由に表現しよう」なんて言われても、彼らの多くが「もともと『想い』なんて持っていない」という、根本的な問題を抱えているからです。

東京医科歯科大学の調査によると、最近「味覚障害」の子どもたちが急増しているそうです。「甘い」「苦い」などの味覚を認識できない子どもが30%にものぼるとのこと。「子どもが同じようなものばかりを食べている」ことが原因らしいのですが、なぜそうなるかというと、「親が子どもに『今日はどんなものを食べたいの?』と聞いてしまうから」だとか。子どもの側からすると「食べたことのないもの」はリクエストのしようがありませんので、いつも似たようなメニューのローテーションになる。子どもたちが「自由」に「好きな」ものを食べられるようになった結果、複雑な味を感知するセンサーが働かなくなってしまったのです。

「味覚」と「感受性」を一緒にしてはいけないのかもしれませんが、強制されることなく自由に好きなものに触れることのできる子どもたちは、興味外のものに触れる機会を逃し、得られるべき多様で有益な感受性を得られずに生きているのかも知れません。「想い」のバックグラウンドとなるもの……知識や体験、感じ取るセンサーの欠如。「表現力の育成」のためにアウトプット(出力)の質を向上させようと躍起になってはみたものの、子どもたちの「想い」の根源となるものをうまくインプット(入力)させられていない……。「自由」という魔法の言葉や、学校教育のこういった弱さも、子どもたちの「感受性障害」に拍車をかけてしまっているのです。

去年の春のことです。

「世界遺産候補『三重津海軍所』」を扱った劇を書いて欲しい」という突拍子もない依頼が来ました。「顧問も生徒も郷土の歴史のことをよく知らないので、資料をください。」と申し出たところ、DVD1枚と薄いパンフレットを頂きました。ですが1時間の芝居を創るには情報不足でした。図書館に行っても参考となる文献はありません。切り札であるはずのインターネット情報は、パンフレットと同じ。地元の歴史に詳しい方に聞いても、「あまり文献が残ってないんですよね」とのこと。「インプット」できるものが圧倒的に足りない状態で、県や地域の「三重津海軍所の世界遺産登録を目指す」熱心な方々を前に芝居を上演せねばならない。困りました。

「調べても情報がないのなら、現場に。三重津海軍所跡地に行ってみよう!」

生徒の一言がきっかけで、皆で自転車をこぎ、現地に赴きました。河川敷まで来ましたが、案内の看板などはありません。公園に自転車をとめ、スマホで位置を確認しました。

「もう少し下流だろ。」
「あの橋の下あたりが怪しい。」

建物の跡や石碑などがないかを、散々歩いて探しました。しかし、何もありません。日が沈み出したころ、一人の生徒がスマホで古地図らしきものを見ながら声を上げました。

「場所、わかった!」
「え、どこよ。」
「さっき自転車置いた公園。」
「……は?」

佐賀の未来を担うべく、佐賀藩の誇り高き有志たちによって建造された海軍訓練所は、石碑ひとつ残すことなく広場になっていたのです。「○○病予防の劇」や「○○防止の劇」などをいくつか書いてきた私も、さすがに行き詰まりました。そんなとき、生徒たちが口々につぶやいたのです。

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「どうして壊したんだろう。」
「残す意味を感じなかったのかな。」
「それはないでしょ。日本で初めて実用的な蒸気船を造った海軍所だよ。」
「『葉隠れの精神』とか?派手に誇ることを好まない佐賀人の性格?」

「軍事的な建造物は、敗戦の際に壊されたんじゃない?」
「平和のためってこと?まさか。」
「てか……、壊されて悔しくなかったのかな。」
「誰が?」
「ここで生きてた人たち。」

この子たちにはもともと「佐賀への誇り」などはありませんでした。でも日本で最初に造られた実用型蒸気船「凌風丸」は現存せず、日本に誇るべき業績を有明海の泥にまみれながら積み上げてきた海軍所は、150年後の今、小さなジャングルジムになっている。そのことへの疑念、悔しさ、哀しさが、彼女たちの魂を揺さぶりました。「インプット」できるものはありません。ですが、未来のために積み上げてきたものが壊されてしまった佐賀藩士たちの「痛み」を想像し、彼ら勇士たちが想いを託したはずの「未来の佐賀人」としての使命を感じながら、今の自分たちにしか語れない「想い」をつくり上げていったのです。

「ものはなくても、想いはつながる。私たちが『演劇』で残せば、佐賀藩士たちの想いは未来に受け継がれる。」

その芝居は「やる気のない高校生たち」が、地域からの要望で強制的に「凌風丸の模型を造らされる」ところから始まります。高校生たちは暇つぶしに皆で自転車こいで海軍所跡に向かいます。でもたどり着いたところはちっぽけな公園……。

「三重津海軍所、どうして壊したんだろう……。」

誰かがつぶやき、過去と現在が交錯しながらストーリーは進んでいきます。佐賀に生きる高校生として、何を感じ、あのだだっ広い『遺産』に立って、何を『想った』か……。そのまま素直に表現しました。

こうして、佐賀東高校演劇部作『明日のきみへ』が完成。8月中旬の大阪、そして8月24日の佐賀城にて公演となりました。

「私、将来は佐賀で働いて、佐賀の劇団に入りたいな。」

佐賀東2resize「東京」やら「関西」やらを口にしていた生徒が、この劇を終えてからそっとつぶやきました。刷り込みも感化もありません。与えられなければきっと知るはずも、想像するはずもなかったこと。でもそこから生じた衝動を起点にして、大切な人生を考えたのです。

「積極的に想いを表現しなさい」とせき立てられ、戸惑えば「何でも、自由にいいんだよ」と微笑まれる。いよいよ切羽詰まったときには「コピペ」に頼ればい。そんなことを繰り返していくうちに、自分には「想い」がないことに気付く。でも、なんとなく生きていける。若者にとっては、そんな時代です。

一方演劇に携わる高校生たちは、昨今問わず、「表現すること」を自らに課さねばなりません。「どんな劇をしようか」と話し合ったところで、何かしらのバックグラウンドとなるものがどこにもない……。「ならば体験をモトに書こう」となると、「いじめ」や「SNSでのトラブル」などに行き着く。気合いを入れて稽古し、演劇祭に出してみると、他校も同じような舞台を上演していた……。そんなことが多々あります。ですが、「芝居作り」なんて特異な体験をしない限りは、彼女たちは「スマホばかりを見ていた自分の横顔と真剣に向き合う」なんてことはなかったはずで、「人に見せる芝居」としての価値はともかく、その芝居を通じて自身が多くの何かを得ることになるのです。

高校演劇を「枠にはめて創ったもの」「自由のないもの」だと卑下してしまう人もいます。そう言われても仕方のない部分もあります。でも、そんなどこにでもありそうな芝居ひとつひとつは、数少ない「インプット」にしがみつきながら、「それでも自分の『想い』を表現しなければ!」と必死にもがいている、闘いの結晶でもあるのです。しがみついて、道に迷って、時には興味外からの強引な要望に応えながら、でもそうやって世界を広げていけば、もっと人生を楽しめる人間になれるかもしれません。結果、単なる自己満足になるでしょう。でも、人間が自己満足を否定したら、「じゃあ何のために生きてるの?」ということになってしまうと思うんです。彼女たちが「周囲を楽しませること」に満足を見出せるようになってきたら、世界もほんの少しだけ幸せになると思います。

授業が終わると、いつもの日常が待っています。

「先生、次の劇、どんなのにします?」
「どんなのでもいいよ。お前らはどんな劇がしたいの?」

稽古場で寝転びながら私は、結局はこんな大人の決まり文句を吐き、部員たちは笑いながらこう返します。

「じゃあ、先生の想ったことを『自由に』書いてください。」

2014年は、「与えられた」年でした。「生かされた」年でした。
でも、部員も私も、いつも以上に「生きた」年でした。
今年も幸せな日々を生きていこうと思います。

佐賀県高文連演劇専門部委員長・佐賀東高校演劇部顧問
彌冨公成

2014.11.16

コラム│賞に応募を続けて見えてきたこと(福岡)

福岡を拠点に活動している劇団HallBrothers主宰の幸田真洋です。

劇団HallBrotgersは1999年に結成。今年で15年になります。そしてその節目の年に、九州戯曲賞大賞をいただきました。やったー!…年甲斐もなくはしゃいでしまいました。すみません。
7月に受賞してから今まで、ずっとはしゃぎっぱなしです。やはり、率直に嬉しい。
過去四回応募してきましたが、一度も最終選考に残ることはなく、つまり全くかすりもせずに落選してきました。
それが初めて最終選考に残ったかと思ったら、大賞まで頂いたのですから・・・嬉しいに決まっています。もう一回はしゃぎます。やったー!

・・・とはいえ、もしかしたら、これが奇跡の一回だったのかもしれません。

なんてことを考えると
「この先、大丈夫だろう?ちゃんと良い作品が作れるのだろうか」
とドキドキしてしまいますが、いやいや、そんなことはないと自分に言い聞かせています。
四度落選した経験が、地力を高めてくれたはずだ、と。

授賞式

一番最初に応募したのは2008年の第一回の時でしたが、当時は、今思うと何も考えていなかったです。なんとなく本を書いて芝居を作っていました。
それなのに根拠のない自信ばかりありました。最終選考くらい、軽く残るだろう、と。
それがあえなく惨敗。
送られてきた一次審査員の講評を見て、初めて自分の考えの足りなさ、浅さに気付きました。

人間は自分が見たいものしか見えません。
その事に気付かせてくれるのは、他人からの客観的な評価です。
「あ、そういう見方、してなかった・・・」
「そんな細かいとこ、考えてなかった・・・」
「そういうところまで考えなくちゃダメなの・・・?」
などなど・・・
自分に都合のよいようにしか戯曲を見ていなかった事に気付かされました。

それから、僕は生まれ変わ・・・れませんでした。
「でも、お前に見る目ないんじゃないの?」
など、自分に都合がいいように言い訳を重ねてきました。
そして、知り合いの演劇人が最終選考まで残るのを見るたびに、嫉妬と悔しさばかり募らせていったのです。

けれど、さすがに何度も落選していると、自分に問題があるのではないかという事を認めざるを得なくなりました。

それから、自分の作品に対しての見方が少しずつ変わっていき、結果に繋がったのかな、と思います。

言い訳したり、あきらめたり、考えなかったり、甘い自己弁護だったり・・・
戦わなければいけないのは自分だという事に気付かせてくれた九州戯曲賞は、僕にとって大きな存在です。

となりの田中さん初演

そして、新たな出会いの場にもなりました。
受賞作『となりの田中さん』を12月11日(水)から23日(火・祝)まで、ぽんプラザホールでロングラン公演をするのですが、その中で最終選考委員を務めていただいた岩松了さんとアフタートークをさせていただくことになりました。

岩松さんに芝居を観てもらえて、その上、アフタートークまでしていただけるなんて、九州戯曲賞がなければ実現しなかったことです。

最後に、こういう機会を与えてくださった九州戯曲賞を支えるすべてのみなさま、ありがとうございました。

(劇団HallBrothers主宰 幸田真洋)

2014.07.29

コラム|不利を利点に切り替えて(宮崎)

梅雨が明けて、いよいよ夏本番です。短い夏を思い切り楽しみたいと思っています。はじめまして、こんにちは。宮崎県立芸術劇場で演劇を担当している工藤治彦です。

おかげさまでここ数年、宮崎の演劇事情は活発になってきています。それを実感させる要因は大きくわけて、1.公演数の増加と2.宮崎を中継地とした九州や日本各地の演劇人の交流の2つです。

まず1つ目の公演数の増加ですが、5年前と比較した場合、おそらく公演数は倍近くになっています(正確に集計したわけではありませんが、、、)。都城市の劇団こふく劇場や小林市の劇団25馬力といった、以前からの劇団に加えて、新規の劇団やユニットなどが誕生してきたことが大きな要因です。もっとも元々の数が少ないので、倍増したといっても把握しきれる程度の数ではありますが。大都市圏のような小劇場施設や、熊本の早川倉庫のような空間があるわけではないため、公立の施設に加えて、古い商店街の路地なども活用して上演がおこなわれています。

2つ目の演劇人交流の象徴的なプロジェクトとしては、三股町立文化会館の「まちドラ!」、当劇場がおこなっている「演劇・時空の旅」シリーズが挙げられます。「まちドラ!」は九州各地から集まったカンパニーや演出家によるリーディング公演等、「演劇・時空の旅」シリーズは九州だけでなく日本各地で活躍する俳優らによる作品創作、とそれぞれの形態は違いますが、いずれも宮崎県外から演劇人を集めて、共同で1つのプロジェクトに関わるという点で共通しています。
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そして、重要なのがこれらの取り組みに関わる県内の人材が共通しているということです。
もちろん、すべてのプロジェクトや動きで関わる人材が共通している訳ではありません。
ですが、お互いが「顔が見える」距離にあるため、それぞれの動きをとらえることができ、結果として、お互いの活動が影響を及ぼしあって、有形無形の波及効果が出ているのです。
人口規模も演劇マーケットも小さい宮崎ですが、それがここでは大きな利点として作用しています。

もう1つ大事な点を挙げるとすれば、外部との交流を積極的に取ろうとしているという点です。積年の願いが実を結び、ようやく高速道路が整うような「陸の孤島」宮崎県では、待っているだけでは誰も何もやってきてくれません。こちらから外に出て行くか、外からやってきてもらえるようにしなくてはならないのです。
ここでも一見すると不利な点が、高いモチベーションという利点に変わっています。

宮崎県立芸術劇場では、昨年から「えんげき・とれたて新鮮市」というプロジェクトを開始しました。この取り組みでは、宮崎で活動する30歳未満の演劇人による「みやざき演劇若手の会」とともに事業の運営を行い、「みやざき演劇若手の会」の短編オムニバス公演と公募によって選ばれた他地域のカンパニーが、劇場施設を会場にしてそれぞれの作品を同時上演します。

また、8月9日、10日には宮崎市制90周年事業の一環として、宮崎県演劇協会25周年事業『波の上の青い島』が上演されます。この公演では、作・演出に日南市出身の劇作家・演出家の中島淳彦さんを迎え、書下ろしの新作を都城市出身の井之上隆志さんとオーディションで選抜された県内俳優で創作上演します。
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首都圏や大都市圏の状況が恵まれていると言っても、各地ともはじめからそうした状況が存在していたわけではなく、先人たちの努力の積み重ねがあって今の形ができているはずです。
宮崎でやっていくことを選んだ私たちも不利な状況を嘆くのではなく、それを逆手にとるくらいの気持ちで、一歩づつ前に進んでいきたいと思います。
まだまだ道半ばです。

(公財)宮崎県立芸術劇場 工藤治彦

2014.05.19

コラム|言葉(福岡)

代替のきかない演劇の力、と言うものを実感した事がありません。
他者を、自分を、未知と出会わせワクワクさせるような事や、共感し進んで行く力を得るような事、イメージを深める事は、別に演劇じゃなくても出来ると思っています。
子どもたちと芝居をする度に、その力、を何度も見せつけられているにもかかわらず、代替がきくと思えてしまいます。

なので、「この世に演劇がなくなったら大変ですよ!」と広く言える自信がありません。
自分が好きだからやっているだけ。

何故好きなのか?
某有名漫画に影響されて始めた演劇ではありますが、それよりも、ずっと前。
国語の教科書の中の、括弧書きを読むのが楽しかったのを覚えています。
自分の言葉じゃない言葉を喋る、という事への興味が、
私が演劇を好きになった始まりだったのでしょう。

その後、括弧書きだらけの、台本、と言うものに出会います。
全部、自分じゃない誰かの言葉だらけ。
優しい言葉も、イジワルな言葉も、自分だったら言わない状況下でのそれらを読むのが楽しくて仕方ありませんでした。

芝居を続けていくうちに、それらは、自分の中にも実は存在している言葉たちなのだと気づき、以前ほど手放しで楽しめなくはなりましたが、だからか興味は更に増し、時に喜んで貰えたり、必要として貰えたり、繋がる事が出来たり、の経験が自信になり、少々の困難は越えていける力がつき、更に好きになり、で現在に至ります。

これが「演劇」でなかったら、自分はどうだったのだろうと考えると、なかったらないで、他の事で同じように進んで来たのかもしれないけれど、それでもその事の中に、
私はやはり言葉を探していた気がします。
私にとっての演劇は「言葉」なのかもしれません。
代替がきくと思えてしまうのは、そのせいかもしれないです。

そんな私に、代替がきかないと思える程の演劇の力を、言葉を、紡ぐ為に不足しているモノを探す、新たなきっかけを与えて頂いてから間もなく1年です。

今年も間もなく「九州戯曲賞」の応募が締切られますね。
ちょうど一年前、葛藤していました。

目的は、審査員の方々からの批評を受ける事だったにもかかわらず、いざとなると、それ以外の諸々が思いのほか襲って来て、応募が怖くなりました。
あの時、もし応募していなかったら、私は今も何も確認できていないままです。
自分の好きな事に対して、曖昧な自信と不信を持ったままの今でした。
受賞は、見送られるかどうかのギリギリのモノではあったようですが、
その事実も、私の糧となりました。

あの恐怖を与えてくれたのは、知名度のある注目されている、九州の「戯曲賞」だったからです。
そして、一つの確認と、糧に出来たのは、あれだけの審査員の方々に選評を頂けたからです。
この賞を支えてくれているのは、きっと演劇の力を信じている方たちなのですよね。
私のような人間にも、その機会は平等に与えられ、進む勇気を頂けた事に感謝するとともに、今年は審査員の方々を唸らせる作品の受賞が、応募者だけでなく、戯曲を書いている沢山の同志に多大な前のめりの刺激を与えられる事を祈ります。

頬を叩き応援されたかのような一年前のあの日は、さまざまな言葉に変換され、今も私の背中を押し続けてくれています。

劇団 go to 主宰 後藤香

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2014.03.31

コラム|日本劇作家協会九州支部設立への一歩(熊本)

日本劇作家協会九州支部を作る。そんな話が現実化してきました。
初めましてこんにちは!ご無沙汰しております!熊本のゼロソーの俳優、また舞台制作を手がけておりますSulcambas!の松岡優子です。
こんな九州支部設立の話があがったのは先日、2月15日に長崎で開催された九州演劇人サミットでのこと。
長崎サミットは、ホストを務めたF’s Companyの福田修志さんからの提案で、従来サミットの後に開催されてきたざっくばらんな座談を目的とした交流会をメインにしたものとなりました。

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前回までと比較すれば参加者は減りましたが、その分、お酒の席の雰囲気も手伝って乾杯と同時に各所では遠慮ないトークが炸裂。それぞれの地域の現状を語り、互いに相談し…いつもに増して、より突っ込んだ現実的な現場の話が繰り広げられたように思います。それはもちろん悲観的ということではなくですね。

冒頭で書いた「日本劇作家協会九州支部を作る」という話は以前からありました。
いよいよ九州支部が動き始める、長崎サミットではそんな話と並行して「どこか話に乗ってくれる公共劇場はないだろうか」そんな話題が出ました。
もう5年以上前のこと、F’s Companyやゼロソーの東京国際芸術祭リージョナルシアター・シリーズへの参加をうけて、朝日新聞に「公共劇場 育む 小劇場劇団」といった見出しで取り上げていただいたことを記憶しています。確かにフーズやゼロソーに限らず私たちは少なからず公共劇場に育まれてきた側面があります。直接的な支援ということだけでなく、自劇団の作品の上演の機会をもらい、また自劇団以外でも多くの舞台に関わらせていただく機会ももらいました。もちろんワークショップへの参加、アウトリーチでの地域演劇人の活用もそうですね。
ただ、今回の日本劇作家協会九州支部を作るにおいてもっとも重要 なことの
ひとつは「九州の劇作家の顔が見える」ということだろうと思っています。支部設立は「九州には誰それさんがいて、こんな作品を創っている(創っているらしい)」そんな九州の劇作家の存在を知ってもらうきっかけになりうるでしょう。九州の劇作家さんたちには独自性を備えた展開を期待し、そこにこそ支部設立の衝動的動機がほしい。前面に立つのはあくまで劇作家で、それに賛同してくれる人たちー公共劇場に限らずーを巻き込んでいけばいい。
この日本劇作家協会九州支部設立については同じく2月に行われた宮崎県立芸術劇場主催の演劇・時空の旅シリーズ「シラノ・ド・ベルジュラク」福岡公演のアフタートークでもこふく劇場 永山智行さん、飛ぶ劇場 泊篤志さんによって公言されたとのこと。
劇作家協会未加入の九州の劇作家さんたち。
劇作家協会に入ればもちろん九州支部の活動にも参加できます。
これをまた契機に九州の演劇が活発になることを願って、サミットで「がんばってくれる人」として声をかけていただいた私も何かしらのお手伝いができたらと思っています。

ゼロソー 松岡優子

2014.01.29

コラム|大分の演劇人から見た「ホルトホール大分」の誕生とその背景(大分)

おおいた演劇の会 副会長の工藤和之です。
このコラムでは、初めましての方も多いのかなと。
あらためまして、あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

昨年、大分では二つの歴史ある小屋が閉鎖となりました。
大分文化会館と大分県立芸術会館(ホール)です。
キャパがそれぞれ2000席、1000席。
確かにでかいホールではあったのですが、大分の演劇人にとっての芸術会館はまさに聖地的な意味合いと夢や涙、汗に希望といったものを感じてきた空間だったわけです。
これらの会場の存続、あるいは新ホール建設に向けての、我々の声を届けさせてもらえるようにと署名活動等でご協力くださった皆さま、その節は大変お世話になりました。
結果老朽化に伴う安全確保維持が難しいとのことで、存続あるいは代替利用の希望も叶わないことにはなりましたが、大分市が新たに建設した複合施設「ホルトホール大分」が昨年8月に、可動席でキャパ200席の小ホールと1200席の大ホールを併設してオープンしました。
館の方針と演者の需要があいまって、今後このホールが大分での拠点となりうることが出来るかどうかは、またこれからの世代次第かなってところです。

おおいた演劇の会でも こちらのホールから開館記念行事に演劇として参加して欲しいと依頼を受け、昨年8月に「もったいないばぁばと豊の花」(脚本:日下渚)と会が例年夏の定例公演としているリーディング作品「蝉なきやまず」をこの開館イベントとして実施することが出来ました。
ここの小ホールの特性を活かして、大胆にも一幕と二幕では舞台装置をまったく作り替えるという(客席もなくなるという!?)離れ業的構成で挑みました。

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その間奇跡の15分、僕が役の体で会場外ではお客様相手に富くじ抽選会を行い場をつなぐといったことも実施したわけです。無事好評の中で終了することができました。

うれしいのは、この作品を実施するにあたりオーディションを開催、あらたな人材発掘を目指したわけですが、そこに集いし演劇お初な面々が、その楽しさに触れ、味わう厳しさに新感覚を目覚めさせたのか、ユニット劇団を立ち上げ 先日遂に公演までに至るということにも繋がり、また会で今取り組んでいる3月の「大友宗麟」にもその時のメンバーが参加しているといった「継続」」なパワーを再び感じているところであります。

小屋の問題、メンバーの問題、資金の問題、劇団を継続していくうえでこればっかりは変わらず様々な問題があります。劇団じゃなくても「芝居をする」といった行動でさえもです。厳しいです。
既存の劇団もタッグを組むなど(脚本提供、演出依頼、合同出演等)工夫をしつつ、それぞれの活動を続けたりもしています。

そんな中で我々おおいた演劇の会では、今後は少しでもこういう人材発見の手助けになる活動が出来たらいいのかなと。
そもそも演劇の会結成当初というのはその存続意義は、いわゆる互助会です。
個々の団体が一同に介して何かうつとか、相互に協力して運営・公演を行うというものでした。
が、実際にはこれが個々の活動の制限になるとか、メリット感が薄いといった意見の中、会からは離脱・・・あ、これは昨年日下もコメントしてますが、今は実質、少数での形成となっています。
とはいえ、先述の開館記念公演に声がかかるなど、演劇界外からみたら「おおいた演劇の会」という名称、存続の意義は残っており、人材発見のきっかけにもなってる事実はやはり、いいんじゃないのと。
結局 今もこうしてあーだこーだで運営というか心持ちしている次第であります。
本当にとりとめのない文章となりましたが、今後ともおおいた、ヨロシクお願いいたします。

九州演劇協議会
おおいた演劇の会副会長
工藤和之( 劇団工藤屋。店長)

2013.11.28

コラム|新たな一歩を踏み出すとき。―かごしま演劇の歩みと共に―(鹿児島)

役員改選で鹿児島演劇協議会の事務局長となった日から、あっという間に1年半。
ご紹介と共に、今とこれからの鹿児島をしっかりと見つめてみたいと思います。

現在(2013年11月末)鹿児島演劇協議会には「9団体、10個人」が加盟をしています。
中学・高校・大学演劇や、市内外の劇団(南は知覧、北は伊佐)、演劇関連のスクール、個人会員のユニット活動など、その内容は非常にバラエティーに富んだものとなってきました。

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そんな私達の活動の柱となっているのは、年に2つの大きな公演。夏の鹿児島演劇見本市(写真左)と、冬のリーディング公演です。
見本市は今年で5回目を迎え、6団体が30分と限られた時間で上演を行いました。
「鹿児島に根をはり活動を続ける者たちの広く市民にアピール出来る場」として、また「市民が身近に舞台芸術を味わう事の出来る場」として、この企画が少しずつ浸透してきているという事が、来場者数の伸びやアンケートの内容、円滑に行われた企画運営から見てとれるようになってきました。IMG_0098
続いて、冬のリーディング公演(写真右)についてです。こちらは2014年1月25日(土)の開催が3回目となるヒヨッ子企画。毎年、「作・演出」「出演者」「運営」全てが違う形態で、試行錯誤しながら進んでおります。ただ、リーディングという言葉にすら馴染みがなかった鹿児島の演劇人にとっては、新たな挑戦の場として求められるようになってきました。

あ、そうそうもう一つ大事なお知らせが…。しかし、継続しようとすると「マンネリ化」が巨大な壁となって立ちはだかります。
それは今まさに直面しようとしている問題。だからこそ、ここらでしっかり他県に目を向け、足を伸ばし、様々な企画や公演から刺激や情報を得る事が必要となってきました。
そして、それをどう活かすか。新たな面白みを生むタネを作る事が出来るのか。
きっと、ここからが本当の勝負な気がします。
今まで以上に山あり谷ありなのかもしれません。そんな中で、鹿児島の演劇がどうなっていくのかを、どうかぜひその目でお確かめ下さい。
協議会の企画でも、劇団の公演でも何だって構いません。観に足を伸ばしてみて下さい。
新幹線が通った今、南国鹿児島はぐぐっと近くなっていますよ。

あと2年。なんと2015年に「第30回国民文化祭」が、ここ鹿児島で開催されます。
私達、演劇協議会は市の事業の一環で「現代劇の祭典」を行う予定です。
今後、様々な場所でPRする場も増えるかと思いますが、是非、観る側、演る側、どちらでもOKですので興味を持っていただけたら幸いです。
充実した企画になるように、皆で協力し努めてまいりますので、宜しくお願い致します。

鹿児島演劇協議会事務局長 福薗宏美

2013.09.03

コラム|なぜその土地で芝居をするのか?(佐賀)

皆さま、こんにちは。

私は、佐賀演劇連盟のホームページやブログ、Facebook等で佐賀演劇の情報発信をしております、瀬崎智子と申します。今回のコラムでは、なぜその土地で芝居をするのかを大きく「場所」と「人」という2つの観点から考えてみたいと思います。

「なぜその土地で芝居をするのか?」
皆さまも1度は考えたことがあるのではないでしょうか。

「生まれた場所がそこだった」
「ここでしかできない芝居がある」
「たまたま流れ着いた」

いろいろな理由が皆さんそれぞれにあるのだと思いますが、なぜ私が、もしくは佐賀演劇人が佐賀で芝居をするのか?疑問に思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか。佐賀県は全国からの認知度が低く、九州7県の中でもなかなか名前が出てこないという方も多いと思います。人口も約85万人と全国順位では下から数えた方がはやい位置にあります。正直、役者もスタッフの数も十分とは言えません。
しかし、それでも佐賀で芝居をするのは「場所」と「人」という大きな支えがあるからだと思います。

◆佐賀の「場所」について
もう少し細かく「稽古場所」「公演場所」「交流場所」に分けてみます。
・佐賀で芝居の「稽古場所」といえば、公民館です。佐賀の公民館は無料のところが多いのでとても助かります。無料の駐車場が併設されているのも、ありがたいことです。また、公民館を通してその地域の方々との交流が生まれることもあり、佐賀の演劇人にとって、とても大切な場所となっています。また、佐賀演劇連盟に加盟の「劇団Ziシアター」や「劇団とんとこパピィ」などは自身の稽古場や倉庫を自分達主催の公演ではない時にも、他の団体・個人に提供したりと横の連携があることも佐賀の特徴といえると思います。

IMG_0098・佐賀の「公演場所」はバーや喫茶店から小、中ホールと数は多くはないものの、そのどれもが他県に比べれば安く使用することができます。
例えば、連盟に加盟している「金曜ショー劇場」、通称「金ショー」。今年で15年目になるのですが、その15年間、場所を提供してくださっているのが佐賀市にあるバーでライブスペースでもある「FRONTIER」です。この場所は佐賀の演劇人にとって家、HOMEとも言えるところです。【写真①-2013年8月金ショー 連盟加盟の「斜陽」より 撮影:SEN】
また、連盟加盟の「劇場STAGE MARO」、通称「ステマロ」は、若手の劇団や他県からの劇団公演を行いやすい、手ごろな広さと料金を提供しています。IMG_0098公演だけでなく、稽古や交流会の場にもなっており、深夜まで使用できるというのも大きな魅力といえるでしょう。【写真②-2013年8月 演劇ユニット「のきっぴ!!」より 撮影:SEN】
昨年2012年には、唐津市の町屋カフェ「ぜん」の2Fに「響く乃間」という日本情緒あふれる雰囲気の良い芝居空間もできました。連盟加盟の唐津演劇集団「響」は、そこで芝居だけでなく落語や朗読といった企画も行っています。【写真③-2012年12月 第1回唐津演劇フェスティバルより 撮影:SEN】IMG_0098

・佐賀の「交流場所」といえば先ほどもご紹介した「劇場STAGE MARO」で月の第1水曜日に行われている「佐賀演劇交流会」があります。演劇交流会と名は打っているものの、バンドマンやマジシャン、何もやっていない人もOKの、なんでもありの交流会です。佐賀演劇連盟にくる個人や団体の窓口にもなっていて、他県からも交流に来られます。ブログやFacebookなど多くのSNSが交流の中心になろうとしている中でも、貴重な人と人との生の交流の場となっています。

◆佐賀の「人」について
佐賀演劇は役者やスタッフの数が少ないこともあり、個人や劇団が比較的つながりやすいといえます。そのつながりから衣装や小道具等のモノの貸し借りが行われたり、役者やスタッフの行き来も生まれています。特にスタッフに関しては個人で複数の団体の裏方に関わっていたり、役者の体のメンテナンス的なことをボランティアでしてくれる人もいます。

このようなことからみても、なぜ佐賀で芝居をするのか?という問いに対して、あらためて答えるまでもないような気がしてきます。芝居をするには佐賀は恵まれた地と言えるのかもしれません。しかし、その「場所」も「人」も努力なしには存続し得ないということを認識しなければならないと思うのです。
例えば「公演場所」は、安く提供できるのには理由がいくつもあって、「FRONTIER」はマスターやスタッフの方の芝居への深い理解があってこそですし、劇場は個人的にお金を出して存続させてくださっていたり、ほぼボランティアで管理してくれる人がいるからこそ、その価格で提供できています。「交流場所」としての「佐賀演劇交流会」も、この6年間、個人的に毎月毎月開いているもので、その継続力には頭が下がります。こうした努力と愛のもとに佐賀の芝居は続いてきました。ひとえに佐賀で芝居をしてほしいとの想いからです。
「なぜ佐賀で芝居をするのか?」は「なぜ佐賀で芝居ができるのか?」ということと向き合っていくということでもあるのです。

「なぜその土地で芝居をするか?」は「なぜその土地で芝居ができるのか?」ということ。だからこそ、その地で芝居を継続できるしくみを誰かではなく、一人ひとりが考え行動していかなくてはならないと思います。その土地で芝居ができることは、当たり前ではないのですから。
そして、未来のその地の演劇人たちが「なぜその土地で芝居をするか?」を越え「なぜその土地で芝居をしたいのか?」と考えるような地になるよう『想い』を残していきたいと思うのです。

最後に佐賀演劇の広報を少しだけ。佐賀演劇連盟にはコラムにあげた他にも団体・個人がおります。よろしければ下記アドレスをお暇な時にでも覗いていただけると、嬉しいです。また「佐賀演劇交流会」は、月の第1水曜日に「劇場STAGE MARO」で行われています。佐賀県の方はもちろん、他県の方も大歓迎です。ぜひぜひお越しください。
それでは、まだまだ暑い日が続きますが、皆さまお体ご自愛ください。

●佐賀演劇連盟HP: http://www.stagestage.com/
●佐賀演劇連盟ブログ: http://yaplog.jp/saga_gekiren/
佐賀演劇連盟Facebook
文:佐賀演劇連盟 瀬﨑智子

2013.07.01

コラム|あの頃から未来の話(長崎)

昭和が終わる2年前に演劇と出会いました。高校1年の秋の出来事です。ケガしてテニス部にも行かずブラブラしていた僕に、演劇部の副顧問の先生が高校演劇祭のチケットをくれたのがきっかけでした。土日2日間、長崎市公会堂で10数本。演劇に対して全く免疫も無く、ただただ目の前で起こる出来事にのめり込んでいったのです。

その頃、長崎で公演していたプロの劇団といえば劇団四季や東京キッドブラザース。花の都では小劇場ブームが巻き起こり、雑誌や戯曲で見る夢の遊眠社や第三舞台に胸を躍らせていました。長崎市内だけでも相当な劇団数があったと記憶しています。

あれから25年の歳月が流れ、随分長崎の町も変化しました。たくさんの複合施設が建設され、娯楽も大味なものから個々人が楽しめるようなものに変わって行きました。坂の町という住民にとってはひどく大変な地形も、『世界3大夜景』の一つに選ばれた途端、ちょっと誇らしく思えたり・・・。

劇団数もひと頃に比べてかなり減りました。理由はさまざまですが、その一つに稽古場として安価で利用できていた施設の撤退が挙げられます。演劇に限らずいろんなサークル活動の拠点となっていた場所だっただけに、自前の稽古場を持っていない団体は活動を制限せざるを得なくなり、ある期間だけプロジェクトチームを作って上演するユニットや行政主催の舞台への出演に表現の場が変わってきたように感じます。

ただ、広く市民の方々に『演劇』を知って頂く為には、団体による継続的な活動が重要な意味を持つものとも思います。一度減ったものを増やすというのはたやすい事ではありません。そこには必ず人間の輪が必要ですし、立ち上がった団体をサポートしていく体制づくりも必要です。昨年、発足致しました長崎県演劇人協議会(NECO)は、これから活動を考えている団体や個人に対し、応援できるものはしていきたいと考えています。活動実績としましては、ワークショップの開催以外まだまだ大きな動きはありませんが、今年「演劇人サミット」のホスト県という事もあり7月の総会を機に、活発化するものと思います。

子供たちが演劇に興味を持ち、いつか舞台に立つのを夢見る事ができるような環境づくりは、今まさに活動している僕らの責任でもあるのでしょう。地味な作業ですが、少しずつ浸透させていく事から始めよう。そう決意した梅雨の長崎より、白濱でした。

文:白濱隆次(長崎県演劇人協議会 副会長)

2013.04.24

コラム|熊本、劇団をはじめることと、その在り方

ゼロソー代表河野氏は大学の先輩である。その河野氏と、十数年前に劇団を作った事がある。名を「姉グロ」といった。ゼロソーやら、第七インターチェンジやらが旗揚げする数年前の話だ。別に解散したという事もないが、取り立てて活動したわけでもなく(劇団の会報の様な物を何号か配布しただけ)うやむやになったままだ。方針で揉めたという記憶もない。そもそも方針を話し合った記憶がない。会議自体は何度かやったと思うが、何ひとつ進展しなかった。

当時の我々にとって、劇団を作るということは、大変な勇気を必要とする物だった。「戯曲を書く」とか「演出する」とか「舞台に立つ」ということ自体が、ものすごいハードルの高い事だったとおもう。ワークショップ的な物が熊本で開催されるようになったのは2000年代に入ってからだし、戯曲講座とか、演劇大学のようなイベントもなかった。

IMG_0098転機になったのは、2005年の「日本劇作家大会in熊本」である。熊本の場合だと、劇作家大会以前と以後では、別の地域だと言えるくらい、それをきっかけに状況が一変した。

現在は、毎年なんらかの劇団なりユニットなりが出来ているようだ。当時と比べると、「演劇をしてみる」ことへのハードルは、相当低くなった。2012年10月には、「DENGEKI」という、若手劇団六団体によるコンテストが自主開催された。六団体だ。かつてのペースであれば、20年ぐらいかかっていたはずのものが、1、2年でできてしまうのだから大変だ。

しかしこれが活況だと一口に言えないのが、難しいところだ。熊本で演劇をやっている人の数自体は、全体では横ばいである。昔からある劇団も含めて、かつては一団体15人くらいが平均的な数だったが、今では二桁の人数を抱える劇団はほとんどなくなってしまっており、特に最近出来る劇団は、二人とか三人しかいない場合も多い。

もっともその結果、「劇団の垣根を越えた交流」というものは非常に活発になっている。これまでは、公的な機関のお膳立てのもと一堂に会して、といった形が多かったが、最近は、自分たち独自のネットワークを元に、一から立ち上げるような企画も増えている。かつての劇作家大会のような、大規模なイベントによって一気に何かが変わるようなことは、今後は起こらないかもしれない。しかし、少しずつだが、着実に変化は起きていると思う。

第七インターチェンジ 亀井純太郎

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