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2013.07.01

コラム|あの頃から未来の話(長崎)

昭和が終わる2年前に演劇と出会いました。高校1年の秋の出来事です。ケガしてテニス部にも行かずブラブラしていた僕に、演劇部の副顧問の先生が高校演劇祭のチケットをくれたのがきっかけでした。土日2日間、長崎市公会堂で10数本。演劇に対して全く免疫も無く、ただただ目の前で起こる出来事にのめり込んでいったのです。

その頃、長崎で公演していたプロの劇団といえば劇団四季や東京キッドブラザース。花の都では小劇場ブームが巻き起こり、雑誌や戯曲で見る夢の遊眠社や第三舞台に胸を躍らせていました。長崎市内だけでも相当な劇団数があったと記憶しています。

あれから25年の歳月が流れ、随分長崎の町も変化しました。たくさんの複合施設が建設され、娯楽も大味なものから個々人が楽しめるようなものに変わって行きました。坂の町という住民にとってはひどく大変な地形も、『世界3大夜景』の一つに選ばれた途端、ちょっと誇らしく思えたり・・・。

劇団数もひと頃に比べてかなり減りました。理由はさまざまですが、その一つに稽古場として安価で利用できていた施設の撤退が挙げられます。演劇に限らずいろんなサークル活動の拠点となっていた場所だっただけに、自前の稽古場を持っていない団体は活動を制限せざるを得なくなり、ある期間だけプロジェクトチームを作って上演するユニットや行政主催の舞台への出演に表現の場が変わってきたように感じます。

ただ、広く市民の方々に『演劇』を知って頂く為には、団体による継続的な活動が重要な意味を持つものとも思います。一度減ったものを増やすというのはたやすい事ではありません。そこには必ず人間の輪が必要ですし、立ち上がった団体をサポートしていく体制づくりも必要です。昨年、発足致しました長崎県演劇人協議会(NECO)は、これから活動を考えている団体や個人に対し、応援できるものはしていきたいと考えています。活動実績としましては、ワークショップの開催以外まだまだ大きな動きはありませんが、今年「演劇人サミット」のホスト県という事もあり7月の総会を機に、活発化するものと思います。

子供たちが演劇に興味を持ち、いつか舞台に立つのを夢見る事ができるような環境づくりは、今まさに活動している僕らの責任でもあるのでしょう。地味な作業ですが、少しずつ浸透させていく事から始めよう。そう決意した梅雨の長崎より、白濱でした。

文:白濱隆次(長崎県演劇人協議会 副会長)

2013.04.24

コラム|熊本、劇団をはじめることと、その在り方

ゼロソー代表河野氏は大学の先輩である。その河野氏と、十数年前に劇団を作った事がある。名を「姉グロ」といった。ゼロソーやら、第七インターチェンジやらが旗揚げする数年前の話だ。別に解散したという事もないが、取り立てて活動したわけでもなく(劇団の会報の様な物を何号か配布しただけ)うやむやになったままだ。方針で揉めたという記憶もない。そもそも方針を話し合った記憶がない。会議自体は何度かやったと思うが、何ひとつ進展しなかった。

当時の我々にとって、劇団を作るということは、大変な勇気を必要とする物だった。「戯曲を書く」とか「演出する」とか「舞台に立つ」ということ自体が、ものすごいハードルの高い事だったとおもう。ワークショップ的な物が熊本で開催されるようになったのは2000年代に入ってからだし、戯曲講座とか、演劇大学のようなイベントもなかった。

IMG_0098転機になったのは、2005年の「日本劇作家大会in熊本」である。熊本の場合だと、劇作家大会以前と以後では、別の地域だと言えるくらい、それをきっかけに状況が一変した。

現在は、毎年なんらかの劇団なりユニットなりが出来ているようだ。当時と比べると、「演劇をしてみる」ことへのハードルは、相当低くなった。2012年10月には、「DENGEKI」という、若手劇団六団体によるコンテストが自主開催された。六団体だ。かつてのペースであれば、20年ぐらいかかっていたはずのものが、1、2年でできてしまうのだから大変だ。

しかしこれが活況だと一口に言えないのが、難しいところだ。熊本で演劇をやっている人の数自体は、全体では横ばいである。昔からある劇団も含めて、かつては一団体15人くらいが平均的な数だったが、今では二桁の人数を抱える劇団はほとんどなくなってしまっており、特に最近出来る劇団は、二人とか三人しかいない場合も多い。

もっともその結果、「劇団の垣根を越えた交流」というものは非常に活発になっている。これまでは、公的な機関のお膳立てのもと一堂に会して、といった形が多かったが、最近は、自分たち独自のネットワークを元に、一から立ち上げるような企画も増えている。かつての劇作家大会のような、大規模なイベントによって一気に何かが変わるようなことは、今後は起こらないかもしれない。しかし、少しずつだが、着実に変化は起きていると思う。

第七インターチェンジ 亀井純太郎

2013.02.01

コラム|距離、を思いながら

5年が経ちました。わたしが演劇ディレクターを務める宮崎県立芸術劇場の自主制作公演「演劇・時空の旅シリーズ」、その第1弾、BC411ギリシア『女の平和』が上演されたのは2009年のこと。5年が長いのか、短いのか、それはわかりませんが、とにかく、あれからその旅は、フランス『シラノ・ド・ベルジュラック』、ロシア『三人姉妹』、イギリス『フォルスタッフ/ウィンザーの陽気な女房たち』とつづき、今年はいよいよ、日本に帰ってきました。
ご存じない方もいらっしゃるかと思うので、改めてこの企画の説明を。「劇場を厨房に」ということでスタートしたこの企画は、古今東西の、いわゆる古典作品と呼ばれる戯曲を、九州在住、あるいは九州出身で、現在劇団で活躍されている俳優さんに、一ヶ月宮崎に滞在していただき、わたしの演出で上演するものです。オーディションは行わず、あくまでわたしが各劇団の公演に足を運んだ上で、キャスティングをさせていただいています。
さて、今年もその時期がやってきて、1月上旬から、九州各地の俳優のみなさんがウィークリーマンションに滞在しながら、稽古に励む毎日です。
今年の作品は、故井上ひさしさんの実質的なデビュー作品、1969年(昭和44年)に書かれ、初演された『日本人のへそ』です。
毎年、この企画の稽古中は、わたしたちが九州で演劇をつづけている理由を、日々考えさせられるのですが、今年の作品は、東北で生まれた主人公が東京でのしあがっていく様を劇中劇の形で描いた作品だけに、今まで以上に、「東京」や、わたしたちにとっての九州、そして演劇というものを考えさせられる毎日です。
そして、今まで以上に近い距離。すなわち40数年前の日本で、この作品が生まれたという事実。これまでの作品では、わたしは、その国に行ったこともなければ、もちろんその作品が書かれた時代も知りませんでした。けれど今回は、この国で、わたしが生まれた後に書かれた作品、一度だけですが井上さんともお話をさせていただいたこともあります。
日本人のへそ 「日本」。近すぎて遠い「ニッポン」。あれから何が変わり、そして何が変わっていないのか。そんな距離と格闘しながら、今日も稽古は続いていきます。
とはいえ、井上作品。そこには歌と踊りと笑いがちりばめられ、稽古場は熱気につつまれています。
九州に演劇があること、そのことが意味するもの、そんな一端がここにはあると思います。1月30日の都城市総合文化ホールでのプレビュー公演を経て、2月9日~11日に上演されるこの昨品に、みなさんどうぞ足をお運びください。今年は、5周年を記念した特別編集のパンフレット(無料)もありますよ。
遠いですが、宮崎でお待ちしていますね。

※詳しい公演情報はこちら http://www.miyazaki-ac.jp/?page_id=262
※稽古場ブログもあります。 http://jikunotabi.exblog.jp/

公益財団法人宮崎県立芸術劇場
演劇ディレクター 永山智行

2012.12.31

コラム|福岡にいること、東京にいないこと、アンテナ。

こんにちは。2012年もまもなく終わります
福岡で活動中の劇団、万能グローブ ガラパゴスダイナモスの作・演出、川口です。僕が福岡で演劇を始めたのは、高校卒業後、高校演劇部の知人達で劇団(ガラパとは別の劇団です)を旗揚げした時からですから、もう10年近く前になります。って書いてびっくりしました。もう10年!まさかそんなにも演劇を傍らに置いた生活を続けるだなんて、当時の僕はこれっぽっちも思っていませんでした。

天神の様子

その頃から今現在までをざっくりと振り返ってみるに、福岡の演劇事情に色々な変化があったのだなあと思います。例を挙げだすときりがないのでいくつかピックアップして書きますが、最も大きな違いとして感じるのはやはり、他都市、特に東京の演劇との交流が格段に増えた、という点ではないでしょうか。

演劇に携わる人口が、圧倒的に多い関東地方や関西地方、そこで注目されている劇団やユニット、俳優や演出家が福岡に訪れ、我々福岡の俳優や演出と交流をする。ワークショップであったり、共に作品を作ったり、ドラマドクターという形で創作に深く関わりあったり、こういった密な関係は10年前ではまず考えられなかったことのように思います。

また、直接的な交流はなくとも、インターネットを通じて自分が気になる劇団や演出家、作家の情報は一昔前と比べると遥かに容易に手に入れられるようになりました。継続性のある劇団の大半は、自作をDVD化して販売しておりネットでの購入も容易いです。(一昔前であれば、限られた一部の人気劇団の公演がスカパーなんかで放送されるのを必死に録画していたものです。)また、実際にその作品を見た観客のレビューや、劇団側がyoutubeやユーストリームで作品を配信したりということも、もはや珍しいことではなくなりました。さらにいえば、ブログやツイッター等で、そういった作家や俳優の、創作の根源になっているであろう日々の思考などに触れることもなんら難しい事ではありません。
もはや「気軽に手に入れられる」といったレベルでなく「溢れている」あるいは「氾濫している」といっても差し支えない状況でしょう。(勿論これは、演劇というジャンルに限ったことではないですが。)

僕自身、そういった交流や情報の中で得た知識や技術が、今の自分の演劇活動に多大な影響を与えているのは間違いありません。10年前では、たくさんの時間とお金を使わなければ手に入れられなかったものが、少し手を伸ばせば当時よりも遥かに容易に手に入れられる。凄い時代になったものです。

福岡は国内でも有数の都市であり、その「情報の波」によくもわるくも、とりわけ敏感にならざるを得ない土地だったのだと思います。

しかし、そんな時代だからこそ情報を精査する力がより求められるのだとも感じます。中央から洪水のように押し寄せる大量の情報に、敏感にアンテナをはりつづけることと、そしてその中から何を選り抜き、何を捨てるのか。そのセンスが要求されているのだなと感じることが多々あります。そのセンスが、今一番求められているのかもしれません。

そういえば、東京の知人から「東京にはなんでもある。情報も多い。でも、流れが速すぎて疲れてしまう。」という類いの話をよく聞きます。そういう意味では、このボーダレスな時代、「福岡」という土地のアドバンテージはそこにあるのかもしれません。必要なとこだけ上手にすくいあげて、あとはじっくり腰を据え自分のペースで創作を続ける。そんなオイシイとこどりができれば、一番いいよね、なんと思います。

劇場の話など他にも書きたい事はたくさんありますが、あまり長くなってもアレですのでそろそろここらで。
2013年、福岡の、そして九州の演劇にとって良い年になりますように。

万能グローブ ガラパゴスダイナモス
川口大樹

2012.10.30

コラム|大分にある演劇

皆様こんにちは。おおいた演劇の会事務局の日下と申します。急に寒さが増してきました。秋は演劇人にとって多忙で疲れの溜まっている時期…皆様もどうぞご自愛くださいませ。

大分には現在、数では145個くらいの劇団があります。定期的に公演を打てているのは4団体くらいでしょうか…。仕事をしながら、家庭を持ちながら、演劇を続けることは、どこの地域でも同じだと思いますが、簡単なことではありません。小さな劇団が出来ては活動できなくなり、消えていく…そういう様子もたくさん目にしてきました。だったら、できるだけ楽に活動しよう、できるだけ負担にならないように演劇を楽しもう…大分ではそういう劇団が増えてきたのではないかと感じます。それはそれでいいと思います。でも、作品の質を上げ、高めあうことが出来ないことに、私は個人的に物足りなさを感じていました。作品の質を上げることで、お客様を掴めるようになる。お客様に求められるようになれば、演劇を上演しやすい土壌になるはず…。

しかし、大分の演劇の歴史を紐解くと、大分にはその土壌がしっかりとあったはずなのです。20年程前、30以上の劇団が生まれました。その背景には、高校演劇や大学演劇の盛んだったことがあり、また、大分県立芸術会館が創作実験劇場で場を提供し、劇団を育てることに力をそそいできたこともありました。その波に乗って、各市町村がホールを建設し、公民館や市町村が市町村演劇として芝居を創り、その流れの中で劇団が結成されたりと、行政も大分の演劇に熱心でした。iichiko総合文化センターが建ち、国民文化祭が他県よりも早く大分で開かれたのは、大分がより地域に根ざした作品づくりをしていたからだとも言われていました。しかし、大分の県民性のためか、劇団同士はつながりを作らず、30ほどあった劇団もすぐに数えるほどに減ったと言います。そして現在、老舗の劇団も高齢化が進み、若い劇団はバラバラに活動していく中、この演劇界をどうにかしなければと「まずは横のつながりをつくろう」という声が上がり、おおいた演劇の会が設立することになりました。

蝉なきやまず~大分の空襲より~

おおいた演劇の会が設立して6年目。2回のおおいた演劇祭を行い、横の繋がりはできてきました。毎年行っている「蝉なきやまず~大分の空襲より~」という大分の空襲を扱ったリーディング公演は、大分演劇人有志によるものです。(※写真参照)大分市民は、大分市の空襲の様子を知らない方が多く、地域で演劇をする上でとても意義のある公演です。

少しずつですが、大分に演劇の土壌が蘇ってきた様に感じています。しかし、世間での評価とは裏腹に、会の中ではそれぞれの団体以外のことに時間や労力を使うことに「メリットがない」ということで、会を抜けていく会員さんが多く出ました。もちろんそれぞれの団体、活動は大切です。しかし、メリットを作るのも自分達であるはずなのです。協力し、高めあう、そして大分の演劇界が変わっていくことが、メリットに繋がるはずなのです。今現在おおいた演劇の会の会員は6団体6個人。少ないかもしれませんが、大分の演劇に熱意を持った演劇人によるこの「おおいた演劇の会」で大分の演劇界を新たに活性化する、今が正念場だと感じています。

大分駅南に2013年7月、演劇ホールが誕生します。200席の小ホールと、1200席の大ホール。小ホールはおおいた演劇の会有志による「大分市に小劇場をつくる会」の活動により勝ち得たものでした。このホールの開館がまた一つの大きな転機です。歴史を振り返っても、その流れの中にはいつも施設の存在があります。この施設をいかに活用していくかも、私たちの使命です。

大分は今、自分たちの畑を耕す時と感じています。まずは、大分にある演劇を育て、深めていきたいと思っています。どうぞ宜しくお願いします。

おおいた演劇の会 事務局 日下渚

2012.09.27

コラム|鹿児島に根を下ろすために

 鹿児島演劇協議会は2007年に設立されました。それまで明確な形では存在しなかった、劇団や舞台関係者同士の横のつながりを確保し連携することで、鹿児島の舞台芸術全体をとりまく環境の改善や表現の質の向上を目指しました。その上で、より多くのみなさんに舞台芸術に触れていただき親しみを持ってもらえるような活動を行っていきたい、そのために自分たちで行動を起こそう、そんな趣旨のもと、わたしたちは集まりました。

 鹿児島演劇協議会の特徴のひとつとして、劇団以外の舞台芸術団体や個人も加盟できることが挙げられるでしょう。2012年9月現在、7団体、10個人によって構成されています。設立から5年目となる今年は体制を一新しました。加盟7団体すべてが理事となり、より連携を強めて、舞台芸術活動の存在感を示していこう、という流れへと向かっています。
また、大きな特徴として特筆すべきものが、自主事業の継続です。

 鹿児島県の劇団数はそう多くはありません。最近旗揚げした劇団を入れても、15に満たないほどです。長期に渡って活動を継続し、定期的に公演を行っている劇団の数となるとさらにその半分ほどになります。演劇という表現形態・活動そのものがみなさんに広く認知されているとは言い難い状況です。そこで、協議会では2009年度から舞台芸術全般を対象とした「鹿児島演劇見本市」を毎年開催しています。この見本市は夏の企画として定着しつつあり、参加希望団体・入場者数ともに年々増加傾向にあります。さらに昨年から、もうひとつの自主事業として「冬のリーディング公演」を立ち上げました。

 見本市は協議会加盟団体に限らず応募・参加することができ、それぞれの作品を次々に上演していくスタイルで行なっています。お客様へ鹿児島の舞台芸術団体・個人を紹介し、表現の多様性を提示する、また、参加団体同士の交流の場として機能するという意味合いを持っています。一方、リーディング公演は、協議会に加盟している個人・加盟団体に所属している人材の中から、劇作家・演出家・役者を個人単位で起用し、共同で作り上げた演劇作品(リーディングでの公演)をお客様に観ていただく、というものです。

鹿児島演劇見本市 これらの企画は来年以降も継続していきますが、開催趣旨を今一度振り返り、内容の見直しや運営面での改善など、今までの枠にとらわれず柔軟に対応していく必要があると感じています。自主事業で市民のみなさんから関心の目を向けていただくことができても、本質的な中身=鹿児島県の演劇の質が高まらないことには、ただの一過性のイベントで終わってしまいます。パッケージを盛大に飾りつけてはみたものの、根本的な部分、中身がスカスカでは目も当てられません。個々の劇団や個人の向上と、活動の継続があってこそ、企画もより一層意味のあるものになりますし、一過性ではないその先の未来を考えることが可能になるはずです。
 
 最近は、県外での公演を行う劇団も出てきました。鎖国から開国へ。個人的にですが、鹿児島の演劇シーンにこれまでにない広がりが生まれつつあるように感じています。

 自分たちの演劇、鹿児島県産の演劇に誇りを持ち、内に籠ることなく目を見開いて、貪欲に質の向上を目指し、活動を継続していく。その上で、協議会として鹿児島の演劇の未来を考え、演劇が真に根を下ろすために行動していきたいと思います。

鹿児島演劇協議会 代表理事 演劇集団非常口(島田佳代)

2012.08.30

コラム|これからの佐賀~継続はチカラなり~

皆さま、こんにちは。夏休みも終わりを迎え、ちょっとずつ秋の気配が感じられるようになってきた今日この頃ですが、元気にお過ごしでしょうか?

佐賀演劇連盟では、この春から初夏にかけて来年度の事業について話し合いました。
プロデュース公演を行うのか?何かしらの演劇イベントを開催するのか?今の佐賀演劇に足りないものは何か?何が必要なのか?連盟としてできる活動は何か?などなどなどなど。
最終的に出た結論は、それぞれの活動を重視し、連盟としては各団体の情報ネットワークを充実させていくというものでした。

思えば、これまでの佐賀演劇は盛衰の繰り返しだったように思います。特に2004年から2007年にかけて、色んな演劇イベントが開催されましたが、その勢いは続かず、劇団数が増えることもありませんでした。・・・なぜか?それはやはり、運営団体の持久力の不足であったり、どこか無理のある活動であったり、状況に合っていない企画だったのではないか?と。

2009プロデュース公演「ガーネット・オペラ」

そんな大きなひとつの演劇シーンが通りすぎた2008年、佐賀にて開催した「九州演劇人サミットin佐賀」をきっかけとして佐賀演劇連盟は活動をスタート。2010年にプロデュース公演『ガーネット・オペラ』(写真)を開催し、その活動を本格化しました。
現在、会員数9団体5個人。・・・多いのか、少ないのか、なんともいえないのですが、こうやって把握できるということが連盟の活動のひとつの効果のように思います。

もちろん、会員以外にも活動している団体もあり、会員団体及びミュージカル団体も含めると、約20の団体が佐賀で活動しています。ふと気になって、その活動年数をみてみました。おおよその数字ではありますが、3ヶ月~3年/7団体、4~9年/5団体、10~14年/5団体、15~19年/0団体、20~24年/3団体。(活動年数/団体数)

あらためてみると色んな面がみえてきます。一番の驚きは20代を中心とした団体の少なさです!もちろん、20代で活動している役者はいます!確かに少ないですが、いないわけではありません。ただ、20代が代表だったり中心的存在であり、尚且つ実際に活動している団体がほぼ無いのです。・・・ひぇぇ。
連盟の理事メンバーからは何を今更?と突っ込まれそうですが、いやはやなんともかんとも。あらためて考えさせられました。でも、もしかしたら、私が把握していないだけかもしれませんし・・・。

そんな状況の佐賀演劇、どうにかしなきゃと焦る気持ちもあるのですが、大切なのは、やはり、まずは今活動している団体がその活動を充実させ、また、継続できる環境を整えていくことであり、そしてそれが、若手の演劇人を育てることにも繋がっていけばと思うのです。
急激な変化ではなく緩やかな流れこそが、これからの佐賀に必要なものだと感じる夏の終わりであります。

文:辻恵子(佐賀演劇連盟 事務局)

2012.07.30

コラム|みやざきの演劇、「むかしといま」について、ちょっとかじってみました。

例年よりも遅い梅雨明けとなった2012年は節電と猛暑と豪雨という過酷な夏を連れてきました。
どうか皆さまお体ご自愛下さい。
猛暑のなか、みやざきより、暑中御見舞い申し上げます。

さてわたくし、この度この月1コラムのお話をいただいた際に考えました。
九州地域演劇協議会や九州演劇人サミットなど何度となく声をかけていただき、
宮崎代表と言っても過言ではない状況が幾度となくあったな、と。
貴重な機会を与えて下さっているのに、私はみやざきの演劇についてどれくらい知っていたかしら?と。
そこで、今回のこのコラムではみやざきの演劇の「むかしといま」~演劇協会の基礎知識~について、
お勉強したてほやほやの頭でお話したいと思います。

2012年7月現在の宮崎県演劇協会の加盟団体は16団体。
団体設立は47年という大師匠クラスから旗揚げして4年という若手まで、
所在地の北は日向市から南は日南市まで、演劇の傾向もバラエティにとんでいます。
公演場所も公共ホールだけに留まらず、ギャラリーやライブハウス、喫茶店など、
いろんな場所で気軽に演劇に親しめるような試みも増えています。

ただ、少子高齢化の波は当然この演劇協会にも押し寄せていて、
「新しい団体が入らない」「役者が役職に就いたため稽古に参加し辛い」「体力的にきつい」
といった理由により、定期的な公演を行える団体(=活発な団体)となると半減してしまいます。
そもそも演劇協会自体の設立は1988年(平成元年)に県内15劇団での発足で、
現協会の半数以上の団体が設立20周年を越えた団体ですので高齢化も当然なわけで、
かれこれ24年、ほんの少しの増減を繰り返しながらいまに至っているのです。
しかし、県立芸術劇場が「劇団をつくろう」という事業を4年前から行っていることや、
県内の若手役者だけのユニット公演など新たな動きも近年見られるようになり、
協会云々ではなく県内の演劇人口だけをとって見ると、
高齢化は打破出来るんではないかと思っています。

そんないまのみやざきよりもずっとむかしのこと。
いまの大師匠たちがいまの私たちよりも血気盛んでアツかったころ。
1958年(昭和33年)に「宮崎県演劇連盟」という、いまの演劇協会の前身を設立していました。
加盟団体は5団体。
高校演劇のOBたちが立ち上げた劇団、地元青年団から派生した劇団、大学生劇団。
所在地の北は延岡市から南は宮崎市まで。公演場所は主に公共ホール。
稽古場がなく経済的にも乏しい。
ちっともいまと変わらない「演劇を愛する人たちが集うところ」を作っていたのです。
また、その同年に県の助成支援を得て「宮崎県演劇祭」が(以降6年間)開催されたこと。
そしてもちろん、合同公演も行っていたこと。
さらには、戦後からいまに至るまで、みやざきには約70もの劇団が誕生していたことなどを教えてもらいました。
その後演劇連盟は残念ながら、劇団の統合や演劇祭の終了によりフェードアウトしてしまうのですが、
30年の時を経て演劇協会として再び発足するわけです。

半世紀前のみやざきの演劇人もいまの演劇人も時代こそ違うものの、
「この、宮崎という土地で演劇をする」ということに関して言えば、志は同じである。
ということを知り、とても心強く、また嬉しく感じました。
不況だ、少子高齢化だと言われる現在において、
もう24年も演劇協会の加盟団体がさほど変わらないことを考えれば、
演劇人の人口は減るどころか、むしろ増えていることになりますからね。
2011年みやざ演劇祭の写真
先人たちの基盤はたくさんの人たちの手から手へ脈々と受け継がれ、いまの私たちの手に渡り、そしてより多くの若手演劇人の手に託すこと。
「こい(これ)がみやざきの演劇人のむかしで、いまやっとよ。」
と、伝える責任があるのを知り、感謝しつつも、ちょっと背筋が伸びました。

文:神水流じん子(宮崎県演劇協会 副会長 )

2012.06.26

コラム|長崎に吹く演劇の風

ここ20年ぐらいの長崎演劇界をひとことで言えば「激変」じゃないかと思います。僕が演劇を始めたのは21年前。ピチピチの高校演劇少年でした。その頃は社会人劇団がいくつもあって2030代の演劇人を中心にバリバリ公演が行われ、大学の演劇部も全盛期で、今では考えられないくらいの観客動員数を誇っていました。「演劇バブル」ってヤツです。だけど、戯曲は既成の物しか使わず、社会人劇団でも学生演劇部でも、劇作家と演出家がいて作品を作るというスタイルは長崎の中では稀なものでした。

ターニングポイントは『新しい劇場』の出現。長崎市には1998年に長崎ブリックホールが、佐世保市には2001年にアルカスSASEBOが建設され、演劇人と劇場とが共同作業を始め、県外の演劇人と出会うことで人も育ったし意識も改革された。自らが戯曲を創作し作品を作るという劇団が増え、それに続く学生劇団も出てきた。それと共に演劇に関わる人も増え、関わり方にも幅が出てくる。戯曲を書く人、劇団には所属できないけど劇場の企画で舞台に立つ人、音楽やダンスの表現をしながら役者をする人。多様な演劇人は、ときに表現者となり、ときに観客となる。そしてそれら多様な演劇人と繋がる人達が観客となり、またその繋がりへと広がりを見せる。劇場と劇団が連携をした活動が演劇に関わる人達を増やし続けてきたのです。

県外公演をする劇団が増えたというのも大きな変化です。長崎の劇団が、九州の各地へ、東京へ、大阪へと公演に出かける。地元以外の地域で公演することでスキルアップし、そこで得た物を地元に還元する。また同時に県外の観客が長崎の公演に足を運ぶようになる。まるで鎖国の時代から開国へと進んだ歴史のように、開かれた演劇状況が長崎に生まれてきました。

長崎県演劇人協議会記者会見の際の写真
そうした状況の中、この度『長崎県演劇人協議会(NECO)』が発足致しました。この流れを加速させ、強度を上げるため、そして次の世代の長崎演劇人のための結束です。九州演劇人サミットや他県の演劇人との出会いで受けた刺激や化学変化を、長崎の中で作り出すことが出来れば「長崎の演劇シーン」と呼ばれるようなものが出来ると思うのです。良い作品を作るライバルであり、共に演劇に携わる仲間である僕らが手を取る始まりの一歩。組織を作って終わりでは意味がないので、ココから何を生み出していくのか?何を築き上げていくのか?それが大切になってくると思います。

目指すはまだ見ぬ新大陸。目の前に広がる可能性の海に期待と不安を抱えながらの航海となりますが、どうか温かく見守っていただけたらと思います。

文:福田修志(長崎県演劇人協議会 事務局長)

2012.05.06

コラム|博多どんたく港まつりを終えた福岡から、地元の演劇状況

福岡は、5月の3,4日と、博多どんたく港まつりでした。歴史は長く、今年で833年目とのこと。博多どんたくが一段落して夏がやってくると、ぽんプラザホールのご近所である櫛田神社を中心に、福岡、博多は7月15日の博多祇園山笠に向かって突き進みます。

九州地域演劇協議会が主催している「九州戯曲賞」は、今年、この二つの祭りを挟みこむようにして実施されます。この3点を結ぶ共通点を敢えて見出そうとすると、「明太子をつくってよかった」でおなじみの味の明太子ふくやです。「九州戯曲賞」は設立当初から株式会社ふくやからの協賛をいただいています。地域文化への理解が深い地場企業があるということは非常にありがたいことであります。

九州戯曲賞は、2009年から始め、今年で4回目となります。2012年5月15日消印有効となっています。締め切りまであまり間が無いですが、まだ間に合う日程です。もし、身近に九州の劇作家がいらっしゃいましたら、お勧めしてみてください。今回の最終審査は、九州出身の第一線で活躍する劇作家の5名、岩松了、中島かずき、古城十忍、横内謙介、松田正隆(敬称略)にお願いしています。

さて、福岡の演劇状況です。公演カレンダーを見てみると、毎週末何かしらの公演がどこかであっているようです。私が学生をやっていた15年くらい前の公演数は随分と少なく、楽しみにできる公演も年に数回という感じでした。演劇を志す多くの若者は東京を目指し、演劇を続ける場合は、どこで続けるかということを否が応にも考えなければいけなかったのかなぁと思います。私の高校演劇での仲間はやはり東京へ行き、その反発かはわからないけれど、東京の演劇シーンをろくに調べようとせず、私は絶対東京には行くものかと思ったものです。

今では福岡の演劇公演も随分と増え、年に数回ではあるけれど、公演を「選ばなければならない」という贅沢も味わえるようになりました。一方で、少子化のことも考えると、普通にやっていると、この先劇団は増えにくいのではないのかなぁと予想されます。大学演劇部は合同公演などを通して、卒業後に劇団を旗揚げするという現象が戻りつつありますが、高校の演劇部は最近元気がないと聞きます。将来の年代格差を防ぐ意味でも、これからの若い世代に対して、現役の私達が有効にアプローチできる方法を探さないといけません。

遠い未来の私たちの子孫が振り返った時に、833年とは言わなくても、長い歴史があるらしいと自慢できるものの一端でも担えたら素敵です。そういう歴史を作れるのは、文化に他ならないと思います。まぁ、そう言った心持ちでやっていると、壮大かなぁと思うわけです。

文:本田範隆(九州地域演劇協議会 前理事長)|NPO法人FPAP

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