2014.05.19
コラム|言葉(福岡)
代替のきかない演劇の力、と言うものを実感した事がありません。
他者を、自分を、未知と出会わせワクワクさせるような事や、共感し進んで行く力を得るような事、イメージを深める事は、別に演劇じゃなくても出来ると思っています。
子どもたちと芝居をする度に、その力、を何度も見せつけられているにもかかわらず、代替がきくと思えてしまいます。
なので、「この世に演劇がなくなったら大変ですよ!」と広く言える自信がありません。
自分が好きだからやっているだけ。
何故好きなのか?
某有名漫画に影響されて始めた演劇ではありますが、それよりも、ずっと前。
国語の教科書の中の、括弧書きを読むのが楽しかったのを覚えています。
自分の言葉じゃない言葉を喋る、という事への興味が、
私が演劇を好きになった始まりだったのでしょう。
その後、括弧書きだらけの、台本、と言うものに出会います。
全部、自分じゃない誰かの言葉だらけ。
優しい言葉も、イジワルな言葉も、自分だったら言わない状況下でのそれらを読むのが楽しくて仕方ありませんでした。
芝居を続けていくうちに、それらは、自分の中にも実は存在している言葉たちなのだと気づき、以前ほど手放しで楽しめなくはなりましたが、だからか興味は更に増し、時に喜んで貰えたり、必要として貰えたり、繋がる事が出来たり、の経験が自信になり、少々の困難は越えていける力がつき、更に好きになり、で現在に至ります。
これが「演劇」でなかったら、自分はどうだったのだろうと考えると、なかったらないで、他の事で同じように進んで来たのかもしれないけれど、それでもその事の中に、
私はやはり言葉を探していた気がします。
私にとっての演劇は「言葉」なのかもしれません。
代替がきくと思えてしまうのは、そのせいかもしれないです。
そんな私に、代替がきかないと思える程の演劇の力を、言葉を、紡ぐ為に不足しているモノを探す、新たなきっかけを与えて頂いてから間もなく1年です。
今年も間もなく「九州戯曲賞」の応募が締切られますね。
ちょうど一年前、葛藤していました。
目的は、審査員の方々からの批評を受ける事だったにもかかわらず、いざとなると、それ以外の諸々が思いのほか襲って来て、応募が怖くなりました。
あの時、もし応募していなかったら、私は今も何も確認できていないままです。
自分の好きな事に対して、曖昧な自信と不信を持ったままの今でした。
受賞は、見送られるかどうかのギリギリのモノではあったようですが、
その事実も、私の糧となりました。
あの恐怖を与えてくれたのは、知名度のある注目されている、九州の「戯曲賞」だったからです。
そして、一つの確認と、糧に出来たのは、あれだけの審査員の方々に選評を頂けたからです。
この賞を支えてくれているのは、きっと演劇の力を信じている方たちなのですよね。
私のような人間にも、その機会は平等に与えられ、進む勇気を頂けた事に感謝するとともに、今年は審査員の方々を唸らせる作品の受賞が、応募者だけでなく、戯曲を書いている沢山の同志に多大な前のめりの刺激を与えられる事を祈ります。
頬を叩き応援されたかのような一年前のあの日は、さまざまな言葉に変換され、今も私の背中を押し続けてくれています。
劇団 go to 主宰 後藤香